プロフィール

プロフィール

 

藤村 さき

 

海外旅行が仕事です

こんにちは!

海外旅行が仕事そしてライフワーク!

海外パッケージツアーを引率すること20年以上。
海外旅行専門の添乗員、藤村さきと申します。

月の半分は海外に滞在。渡航先は9割以上がヨーロッパ。
渡航日数延べ2300日以上。渡航回数延べ約300回。
5大陸56ヵ国訪問。

56という数字は決して多いとは言えないですが、同じ国に何回も訪問しています。例えばイタリアなら100回に近いくらいです。

添乗員とは

添乗員の別名はツアーコンダクター(和製英語)。海外ではツアーリーダー、ツアーエスコートと呼ばれています。

添乗員=ガイドと認識される方が多いのですが、その業務内容は全く違うのです。

添乗員とガイドの業務内容の違い

添乗員の業務とは

旅行会社が企画し販売するパッケージツアーまたは団体旅行に同行し、旅行計画に従ってツアーが安全かつ円滑に運行されるように交通機関や各種施設との調整や対応を行い、旅程を管理することです。

*一般社団法人「日本添乗サービス協会」HPより抜粋*

海外添乗員になるには「 総合旅程管理主任者」という資格が必要です。

ガイドの業務とは

一方、ガイドさんは現地在住であり、現地各国が認めるガイドの資格を持ち、現地の文化、歴史、伝統などを観光客に向けて紹介してくださる方のことをいいます。

このように添乗員とガイドの業務は全く違うのです。

隠された秘密?! 私が仮面を被るわけ

私が仮面を被っていることには理由があるんです。それには2つの秘密が。

1つ目、現役の添乗員であるから

私は派遣添乗員であるため、複数の旅行会社のパッケージ旅行を担当します。それぞれの旅行会社が派遣添乗員に求めることのひとつは、その会社の代表の立場にある意識を持つこと。社員の「ような」振る舞いを望み、決して派遣であることを明かして欲しくないのです。

ゆえに仮面を用いて所属会社や身元を隠しているわけなのです。

しかし現役とはいえ、2020年からの感染症の影響で海外添乗の仕事は「強制休止」状態。とてもとても残念でなりません。現在(2022/1)も業務再開の目途がたっていません。

でも必ず再開できる日が来ることを信じています。その時は旅行形態もだいぶ様変わりするでしょうね。


なぜ仮面を被るのか。2つ目の理由は、

2つ目、仮面は私の「シンボル」だから

少し話が飛びますが、ヨーロッパの町にはそれぞれの守護聖人が存在します。その守護聖人には「シンボル」が必ずあるんです。

例えばイタリアのヴェネツィアの町の守護聖人は聖マルコ。聖マルコのシンボルは「羽根のあるライオン」。ヴェネツィアの街中にそのシンボルが、彫刻やモザイクなどに現わされているのはそのためなんですね。

それと同様に「仮面」「添乗員である私のシンボル」なんです!

ちなみに私が被っている仮面はカーニバルの仮面でも有名なヴェネツィアの仮面工房で、私自身が絵付けをしたものなんですよ。

 

「仮面」に込める思い

「仮面」のことをラテン語で「ペルソナ persona」といいます。
(ちなみに英語の「person=人間」の語源にもなっていますよ。)

そして古代ギリシャ劇の役者がつけていた仮面が「ペルソナ」でした。後に「登場人物」という意味合いも加わり、「人間、人格」という意味に転じて使われるようになっています。つまり「人間」を表すペルソナは元々は「仮面」という意味なんです。

  • 人はみな仮面を被り生きている。
  • 人は『人生』という劇の登場人物であり、自分自身がその主人公である。

とはよく耳にする言葉ですよね。

そして「人は『人生』という劇の登場人物であり、自分自身がその主人公である。」
これこそが私が思うこと。「旅の主人公」はあなたであるということ。

その旅のエスコートが添乗員の役目。私はそのように思っています。

そんな思いをシンボルにしたのが「仮面」なんです。

添乗員は天職

「海外に行けていいですね」とよく言われます。海外好きの私にとっては確かに楽しいこと。海外旅行をすることでお給料をいただけるのは、私にとって最適の職業です。

「大変なお仕事ですね」これもよく言われます。
添乗員はひとりでツアーメンバー数十名様のお客様の対応をさせていただくのは普通のこと。もしもお怪我やご病気になられる方がいらっしゃれば、その対応に追われ睡眠時間がなくなることもしばしば。

添乗員はツアー期間中はほぼ24時間拘束されているようなもの。お客様より緊急のご連絡があれば、それがたとえ深夜であれ何時でも対応する必要が出てくるからです。

添乗の業務内容は範囲が広くまた1日の拘束時間も長くきつい仕事です。どんな職業でも大変なところはあると思いますが、短期集中型でひとり何役をもこなさなければならない点においては、添乗員は大変な職業かもしれません。

それでも長年添乗員を続けてこられた理由は、やはりこの仕事が好きだということ

グループをまとめ引率し、知っていることをお伝えする。そのことでお客様に喜こんでいただけることが私の喜びにも繋がります。

もうひとつ添乗員を長く続けてこられた理由は、やっぱり海外へ行きたいから

『それなら個人で行ったらいいんじゃない?』というお声が聞こえてきそうですね(笑)

もちろん個人の海外旅行も楽しいです。

個人旅行とは違って、添乗業務としての海外旅行は、個人旅行では味わえない「やりがい」がプラスされるんです。「お客様に喜んでいただける」その反応がすぐさま跳ね返ってくるんです。

ツアー終了時にお客様からの「一言」がいただけたとき、
「藤村さんのお陰で楽しかった。また会いたいわ。」
心身に蓄積された疲れがリセットされる瞬間です。お客様に笑顔でお帰りいただけることが何より嬉しい

私自身の強みが発揮される環境は「添乗員の仮面」を被っているとき。
前面に出ることはなく(目立ちたいと思いません)周囲の信頼を得て、グループの皆さまを穏やかに誘導していくタイプです。決してカリスマ性がありぐいぐい引っ張っていくタイプではありません。

添乗員は私の強みが発揮される、私にとっての天職です。


ところで、ここまでお読みくださったあなたは、こう思われたのではないでしょうか。
『リーダー性があり、人と接することが好きで、面倒見がいいから添乗員になったんでしょう』と。

とんでもない(笑)

私は元々引っ込み思案で、他人と積極的に接する子ではなかったですし、世話好きでもないし、人様の面倒を見ることができるような子でもなかったのです。

子どものときは口数の少ない子

私の子ども時代は口数の少ない引っ込み思案な子でした。父の前では一言も話ができなかったんです。

我が家は毎晩家族全員揃って食事をしたのですが、とにかく居心地がよくありませんでした。父の機嫌が悪かったからです。

食卓の奥に君臨するのは父。いつも苦虫を潰したような厳しい顔でした。ピーンと張りつめた空気が流れる食卓。父の顔色を気にするあまり、言葉を発することもできない私。

父の機嫌が悪いのは私のせい。何か機嫌を損なうようなことを私がしたに違いない、と不安な日々を送っていたのです。

だんだんと父の機嫌が悪い理由がわかってくるようになりました。

父は婿入りで、母と祖母が実の親子。父の機嫌が悪かったのは祖母がそばにいるときでした。

中学生の頃から外国が大好き

特にヨーロッパに強い憧れがありました。

クラスメイトたちが、アイドルに夢中になっていたときも、私はラテン音楽やジャズボーカルが好きで、メロディラインがロマンティックで美しい海外の歌が好きでした。

いつか海外に行ってみたい。居心地の悪い家から離れてどこか遠くに行きたい。遥か遠くの世界への夢が膨らみます。

海外に興味を持つきっかけとなったテレビ番組

私が海外に興味を持つきっかけとなったのは、テレビ番組『兼高かおる世界の旅』でした。紀行番組の先駆けとなったものです。

1959年12月13日から1990年9月30日にかけて30年10か月の間、TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送された紀行番組。私は中学生の頃から毎週楽しみに観ていました。

兼高さんの気品漂う所作と、美しい日本語を遣うナレーションに憧れたものです。言葉は美しく遣うものだということを、この時兼高さんに学びました。

そして、世界にはこんなにも多種多様な民族がいて、それぞれに文化があるということを、映像を通して知ったのです。

当時は海外旅行がまだまだ身近ではなかった時代。海を越えていけば、未知の世界が存在し、姿かたちや考え方が全く異なる人々と交流することができる。そう考えると心が躍りました。

家庭に居心地の良さを見つけることができず、海外に行くことが輝く明るい未来に繋がると信じていたのです。

高校時代そして進学

私が家庭に「居心地の悪さ」を感じていたのは高校生になっても変わらず。機嫌が悪い父、父と仲の悪い祖母、2人の間に挟まれてオロオロする母、みんなが嫌いでした。

家庭ではほとんど口を開くことはない無気力状態でしたが、学校では仲良くしてくれる友人がいつもいてくれたお陰で楽しく笑うことはできていたのは幸いです。

私が学んだ高校は進学校でありましたし、英語教科が好きでしたので、大学進学の際は英文科へと決めていました。

多くの友人たちが進学先として地元から一番近い都会である仙台の大学に志望をする中、私の進学先は東京を中心とした首都圏と決めていました。

なぜなら、とにかく家族から離れたい。それには家から遠く離れたところじゃないといけなかったんです。仙台では家から近すぎたんです。

短大時代のひとり暮らし

家族と離れて暮らす生活。田舎にはないものに溢れている大都会に住むことは楽しいものでした。一度もホームシックにかかったことはありません。

一方、親元から離れることによって親のありがたみがわかってくるようになりました。

ひとり暮らしをすれば当然のことですが、全て自分でしなければならなくなったこと。それまで当たり前と思っていたことは両親から与えられていたことに気が付き、少しずつではありますが感謝の気持が芽生え始めてきました。

炊事に関しては以前よりお料理やお菓子を作ることが好きでしたので苦になりませんでした。

以前から健康自然食に興味があり、たとえひとり暮らしでも玄米ご飯を圧力鍋で炊いたり、なるべく添加物を摂らないように、手作りすることを楽しむことができていました。

時代はバブルが始まった頃でした。

英国へ語学留学

望み通り大都会に住むことができました。
次はどうしてもヨーロッパに住んでみたくなり、選んだ国は英国。

以前よりヨーロッパに強い憧れがあったことと、英語を学ぶなら米語や他の国の英語よりも英国英語で語学を磨きたいと思ったからです。

父に話すと二つ返事で「行ってこい」と。

私は口数が少ないうえに、決めごとはいつも相談なしで自分で決めるんです。打ち明ける段階ではもう心は決まっている、という私の性格を父はよく知っていたのでしょう。

母も快く応援してくれました。

英国へ旅立つ日、成田空港から家へ電話をかけると祖母がでました。
「じゃあ、行ってくるね」とひと言だけ伝えました。でも祖母からの返事がないのです。祖母は電話の向こうでむせび泣いていました。

あの気丈な祖母が泣くなんて!?
祖母の泣く姿はそれまで見たことがなかったのです。

こんな心配をかけてまで遠くに行くのだから英国ではしっかり学びたくさん色んなことを吸収してこないといけないな、という気持ちを新たにしました。

英国の生活

私が渡英したのはちょうど湾岸戦争(1991)が始まった年でした。

英国での暮らしはとても楽しく、見るもの、聞くもの、食べるものが何でも興味深く、毎日が新鮮な発見の連続でした。

私は食べることが大好きです。以前から自分で作ることも楽しみでした。

英国の食事は不味いという定評がありますが、スーパーには他ヨーロッパの輸入食品などの美味しい食材が揃っているんです。

一番感動したことは、当時英国では既に精製品と未精製品の両方があり、消費者が選択できるようになっていたことです。

どういうことかというと、例えばスーパーなどで販売される食パン。白いパンと茶色いパンの2種類おいてあるんです。白いのは精製小麦粉を、茶色いのは全粒粉を使用のパン。しかも料金が同じなんですよ。

ティールームなどでもテーブルには白砂糖(精製)と茶色の砂糖(未精製)の両方が必ずありました。

以前から健康食コンシャスだった私にはとても嬉しいことだったんです。日本ではその当時はまだ「茶色のもの」はほとんど出回ってなく、あったとしてもものすごく高価だったからです。

また文化面でも充実の日々。お芝居やミュージカル、クラシックコンサートなどもお手頃な学生料金(当時のレートで1,000円しない)で鑑賞できてしまう気軽さ。

英文科を学んだこともあり、英国内中の文学ゆかりの地への旅。列車も宿泊もお手頃な学生料金。他のヨーロッパには国内旅行感覚で行けてしまう気軽さ。航空機の料金も学生料金。

当時はインターネットなどない時代、ましてや携帯さえもなかった完全アナログ時代に気ままなひとり旅を満喫しました。

ヨーロッパ各国や北アフリカにもたくさんの友人も出来ました。帰国した友人を訪ねて行ったこともありました。

英国での暮らしは1年半ほどでしたが、楽し過ぎてホームシックなど感じたこともなかったんです。

海外専門のツアーコンダクターとして

短大時代のクラスメイト達は主に大手銀行や証券会社に就職していました。母も大手企業に就職してもらいたかったようです。でも私自身が楽しいと思える職業に就きたいという思いがありました。

私が職業を選ぶにあたり重視したことは、当時としてはかなりレアな考えだったかもしれません。

  • 海外に行けること
  • 英語を使った業務があること
  • 9時5時のオフィスワークではないこと
  • 休暇は自分で自由にコントロールできること

それが、海外専門の添乗員でした。

旅行業の唯一の国家資格をとるために1ヶ月間集中して猛勉強。

当時のその試験の名称は「一般旅行業務取扱主任者」というもので8教科の試験でした。その後名称は変わり、現在は「総合旅行業務取扱管理者」になっています。

添乗員になるためにはその国家資格は必要なく、海外添乗員の資格試験( 総合旅程管理主任者)に合格すればよいのはわかっていました。しかし旅行業の唯一の国家資格を取得しておこうと思ったんです。

 

添乗員としてのスタート

子ども時代は引っ込み思案で口数が少なく面倒見のいい方でもなかった私が、接客業の最たる(?!)添乗員になると誰が思ったでしょうか。

「添乗員に向いてないんじゃない?」と言う方もいたのです。

でも私がやりたいと決めたこと。向いてないかもしれないけど、やりたいことだったんです。

子どもの頃は口数が少なく引っ込み思案だった子が、数十名様のお客様を前にお話をする。面倒見のいい方ではなかった子がお客様のお世話をする。

最初は気が利かずお客様からクレームをいただくこともありました。


「どういう教育をしているんだ!」と旅行会社にクレームをされたお客様もいらっしゃいました。私の何気なく発した言葉がお客様の逆鱗に触れてしまったようなんです。

ご存知でしょうか?
添乗員はツアー毎にお客様から評価(点数)をいただいているんです。

ツアーの最後に旅行会社はアンケート作成のご協力をお客様にお願いをします。実際は添乗員が用紙を配るのですけどね。

ツアーの内容、食事のこと、宿泊のことなどに5段階評価を付けていただくわけです。その中に添乗員の評価も含まれています。

「気が利かない」などの理由で、評価は2(やや不満)か1(不満)をいただくこともありました。あれほど大変な思いをしても「不満」とは、酷くガッカリ。

また理由が明記されていれば改善に努めるものですが、何もコメントがなく2か1が付いた時には途方に暮れたこともありました。

さらにアンケート用紙だけでは書き足りず別用紙にまで私に対する不満をびっしり書き綴ったものもありました。

「お客様のために!」

どのように人と接すればいいのか途方に暮れてしまっていた頃、悩める私に私の尊敬する方がアドバイスをくださいました。

『お客様のために』という思いから生じる言動なら、何をやっても許されるはずですよ。

自己肯定感が低く悩みが多すぎて、人と接する仕事なのにもかかわらず私は人様のことに気を遣う余裕がなかったようです。最低な添乗員。

アドバイスをいただいてから、お客様にとって何が最善かを考えるようになりました。

私は元々人の感情の変化に敏感で、よく「気が付く」ところがあります。その気付いたことをお客様にして差し上げるととても喜んでくださいました。それが私も嬉しくそして楽しくなる好循環を生むようになったんです。

次第にお客様からの嬉しいお褒めのコメントもいただけるようになりました。

ありがたいコメントはコピーをとって宝物として今でも大事にしています。酷く落ち込み自信をなくした時にはいつも「宝物」を読み返しては元気をいただいてきました。

ちょっと気恥ずかしいのですが、ここで少し「宝物」を紹介させていただきますね。

今まで出会った添乗員にない優れた統率力があり旅を楽しくしてもらった。人気添乗員のツアーに何回も参加させていただいていますが、その人達(人気添乗員)以上の方だと思いました。上司の知らないところに人材ありか。

でしゃばらず、控えず、しかしポイントをおさえるコミュニケーションは絶妙だと思います。背中を優しく押しながらリードするといった感じでしょうか。

とっても奥深い、人の人生にかかわる良いお仕事ですね。素晴らしい仕事振りでしたよ。どうかご自分に充分な自信と誇りを持ってください。あなたの誠実さが何よりの宝物です。それはきっとご両親に大切に育てられたのでしょう。これからも幸せな人生を切り開かれるよう祈ります。

事前の電話の時からプロの気遣いをいただきました。何より品格があって心遣いが行き届き、そして穏やかでかつ毅然としていて決して荒げず。そんなムードがグループ全体を引っ張ってくれていました。天職なのではないでしょうか。個人の育ちに由来しているのでしょうか。

さて、このコメントは本当に私のことでしょうか?(←本音、笑)
この記事を書きながらも、改めて嬉し過ぎてありがた過ぎて感極まっています(泣)

今まで他言はなしに私の心の中にずっと大切にしまってきた宝物。
こんなにもありがたいコメントをお書きくださったお客様にこそ感謝しかありません。

「上司の知らないところに人材ありか」のコメントのように、私はセルフプロモーション(自分を売り込むこと)が得意ではありません。自分のことを自分から話すことはなかなかないんです。つまり自己開示が苦手。

前面に出ることはなく(目立ちたいと思いません)周囲の信頼を得て、グループの皆さまを穏やかに誘導していくタイプなんです。

それと「誠実さ」のコメントをいただけたのは、両親と祖母のお陰。

長年安心して海外へ添乗に出かけることができる家庭の環境も整っていたこと。そして家族全員が健康でいてくれたことにも感謝しかありません。

両親、祖母への思い

中学生の時から両親、祖母を嫌っていましたが、私の親、私の祖母である前にひとりの人間として3人を客観的にみることができるようになって分ったこと。

それは多くの人から慕われる、人に優しい人達だったのです。

私自身が天職と思える職業に就くことができているのは両親と祖母のお蔭。天職に就くことができていること自体とても幸運なことだと思うのです。

私は誇りに思う両親の子どもに生まれてきて本当に良かった。

しあわせはちゃんと目の前にあったのに、私自身がそれを否定し続け、目の前を照らすことなく暗くしていたのです。

まるでメーテルリンクの「青い鳥」そのままなんですよ。

ただひとつ、両親、祖母に思うことは、私の子ども時代にもっと褒めて欲しかった。家庭に居心地の悪さを感じていたため家族が嫌いでしたし、自己肯定感がゼロ。

もっと褒めてくれていたら自己肯定感はもう少し高かったと思うのです。

概して自己肯定感の高い国民といえばイタリア人だと私は思うのですが、
そのイタリア人の根拠のない?!(笑)高い自己肯定感はどこから生まれるのかと考えると、親や周囲の大人達が子どもを褒め、とても大事に思っていることをストレートに伝える愛情表現があるからだと思うんです。

日本人は身内を積極的に褒めない傾向にありますよね。私の両親を育てた親世代も更にその親世代も積極的に親から褒められることなく育ったんだろうと想像がつきますから。責めているわけではないんですよ。これは日本国民全体の問題なのかもしれませんね。

旅への思い

様々な国を旅してきたからこそ、そして、国外に出たからこそ見えてくること、知り得たことがあります。

それは「日本」という国と人の素晴らしさ。

チルチルとミチルの兄弟がしあわせの「青い鳥」を求めていろんな国を探し周ったように、私もさまざまな国を訪れた結果、私の「青い鳥」も結局は目の前にありました。

しあわせや不しあわせというものは「あるか」「ないか」ではなく、「感じるか」「感じないか」で存在したり、存在しなかったりするのですね。

私自身がしあわせを感じることができず否定し続け、目の前のものをみようとしていなかったのです。

家族をはじめ周囲の人達に助けられて生かされてきたこと。いかに愛を与えられていたか。

そして天職の添乗の仕事を通し「私自身の人生」を生きてくることができたこと。全てに感謝をしないと、私は人でなしですね。

人が旅に出るとき

人が旅に出るときは人生の節目が多いようです。介護が終わった。仕事を辞めた。転職する。卒業する。などなど。さまざまな思いを抱いての旅。

人は『人生』という劇の登場人物であり、自分自身がその主人公である。

同様に「旅の主人公」はあなたです。その「主人公」のエスコートが添乗員の役目

一生の思い出に残るような旅をしていただくことで、あなたに笑顔になっていただきたい。

その笑顔から心にも余裕ができ、やさしい気持ちにもなります。その優しいお気持ちをご家族に向けていただきたいのです。

家庭のしあわせ

一番大切なことは家庭のしあわせ。特に「お母さん」笑顔が太陽となり、ご家庭を温かく明るく照らすと、そのご家庭はしあわせになると私は思っています。

「海外旅行というツール」を通し女性(お母さま、奥さまなど)に笑顔になっていただくこと。それにより多くのご家庭が笑顔としあわせに満ちること。
これこそが海外旅行が仕事、旅をライフワークとする私の願いです。

世界で一番小さな単位のご家庭からしあわせの輪を広げ、お隣近所に、地域に、地方に、国に、そして世界に広げ、世界が平和になることを願ってやみません。

 

現在無料メルマガ配信中

登録画面が開きます
  ↓